薬師寺 鐘楼
高田好胤師の法話集より、第9回目
無漏(むろ)と有漏(うろ)についてのお話。
「漏」というのは、煩悩であり自己中心的で
自分自身のエゴに冒されている汚れた心のことをいう。
だから、有漏(うろ)というのは、汚れがある
煩悩の持ち主であり、無漏(むろ)とは純粋で
汚れのない心の持ち主のことである。
そこで、「有漏善」(うろぜん)という言葉がある。
汚れを離れていないが、
世間的に見れば”善”であるという人。
うわべには”善”に見えているが、
気に入らないことがあったならば
心の中で、怒りの炎が ”バッ” っと燃え上がるのだ。
我々は、条件が満たされたときのみ
”善”でいられる。
だから、条件を満たしてくれている周り近所に
お礼を言わなければならない。
例えば、ある道徳的な人が
勲三等という勲章をもらったとしよう。
「 いや、私など、こんな勲章を頂けるような
資格のある者ではございません。
世間様、皆様のおかげでございます。
本当にもったいないことでございます。 」
といって、どれ程感謝されるかわからない。
謙虚で”善”なる人である。
しかし、次の日
隣の人が勲二等をもらったことを知ると、
”なぜ、あいつが勲二等で自分が勲三等なのか”
という気持ちが出てくる。
その瞬間、喜びの勲三等が
恨みの勲三等になってしまうのだ。
私たちの多くはお互い、そんなものなのだ。
良い人に見えていても
心の中にはどんな火種をもっているかわからない。
私たち多くの、”善”は、
相対的善である、「有漏善」(うろぜん)である。
私たちは、その自覚だけは持っていたい。
ただ、有漏善であっても”善”を積み重ねることで、
無漏善になれる。
日々、”善”なる心を心掛けたい。
(筆者の独り言)
私は、仏教徒ではないが仏教の教えは日本人の
心にとても浸透しやすいと思う。
自己中心的な考えを追い出し、汚れをなくし、
純粋な心である「無漏」に近づけば近づくほど、
何も恐れることなく、大きな視点で最善を講じることが
できるだろう。
まだまだ、多くの修行が必要である。
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