高田好胤師の法話集より、第2回目
ある名家に神経質なご主人がいました。
お正月、
ご主人が金の弦(つる)のついた土瓶でお茶を飲もうとしていたところに、
女中さんがうやうやしくお膳を運んできました。
女中さんは緊張したはずみでけつまずき、
ころんで、主人の土瓶をひっくり返してしまいます。
そして、土瓶は二つに割れてしまいました。
神経質な主人は、それからふさぎ込んでしまいます。
何てことだ、正月早々こんなことになるなんて。
今年はろくなことがないであろう。
情けないことだ。
そのふさぎようは、家の者全員が手こずってしまうほどでした。
そこへ隣のご主人が正月のあいさつにやってきます。
この主人は歌を詠むことが好きな、教養ある方でした。
「おめでとうございます」
『何がめでたいか、正月早々赫赫云々で、土瓶が壊され
めでたいことなどない』
「いや~、めでたいことですな~」
『土瓶が割れて何がめでたい』
「いや、めでたい。
貪と貧が無くなった。 そして残ったのは金の鶴じゃないですか!
まるで、お宅に鶴が舞い降りてきたようだ」
そして、
「元日に、貪と貧とが打ち割れて、あとに残るは金の鶴なり」
と詠みました。
その歌をきいた、神経質な主人は大変喜よろこんで、
「来年はこの金の弦のついた土瓶を二つ割りましょうか」
といって、心が明るくなり、
ようやく、明るいお正月を迎えることができるようになったのです。
高田好胤師は、このお話のあと
”自分の思いで世の中を暗くも明るくもすることができる”
と語っている。
確かに、この世に起こる出来事には 意味がない とも言える。
そこに意味を与えるのは、自分自身だからだ。
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